0803口論
◆口論
さいきん、数年ぶりに隣人が越してきた。
むかし隣室に住んでいた家族が入居後一年ほどでどこかへ引っ越してしまって以来のことなので、久しぶりの感覚に戸惑っている。
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私はいまの入居者の中ではおそらくもっとも長くこのアパートに住んでいるはずだが、実はこれもはっきりしない。一人くらいは私よりも長いかもしれない。
というのも、人付き合いというものを厭うあまり、入居して五年以上経過しているような住人ですら、顔はおろか声も覚えていないのだ。性別くらいはわかるかもしれない。
たとえば、何かの習い事で作ったという謎の縫製作品*1が手紙付きでドアノブにくくりつけられていたり、来客時に廊下で待ち伏せしてきたりなど距離感がバグっているエピソードもないわけではないが、たいていは人物ではなくエピソードとしての記憶だったりもする。
当人が自分の部屋の扉から顔を出している状態であれば、アアこの部屋の人なんですねと思い出す程度だ。
駐車場の空きスペースが埋まるようになったとか、怒号が多く飛び交う様になったとか、そういう曖昧な情報を取り入れた瞬間だけアップデートされるが、半分くらいは次の瞬間に忘れている。
私は誰ひとりとして近所人の名字すら知らないが、相手は私の顔も名前も知っているし、同じ建物内にすら住んでいないご近所も私の存在を認知しているらしい。
正直なところ、かなり恐怖を感じている。
・・・
深夜、暗い部屋で横たわっていると、押入れの奥から明瞭な会話が聞こえてきた。
幼児のはしゃぐ声、それをたしなめるような母親のセリフ。
男女の仲睦まじげな声、足音。
おそらく場所は隣家の寝室だ。
今までそんな物音は聞こえたこともなかった。
きっと隣人はこちらに単身赴任にでも来ていて、今日は家族が遊びに来たのだろう。
盗み聞きをしているようできまりが悪かったが、かといってすぐに起き上がる気力はなく、興味本位もあったのでそのまま放置することにした。
しばらくすると、私に対する不満や愚痴の話題になった。
向こうにもこちらの生活音がすべて聞こえているようで、とかく不気味だとか、夜中に歩き回るだとか、観ている映画の果てまでも気に食わないようだった。
いくつかは他の住人による罪をなすりつけられていた。
申し訳ないような気持ちになりながらも、こちらだって今まさに丸聞こえな上、幼児の叫び声にまで我慢しているのにその言いぐさは無いんじゃないかと内心で反論していたら、隣人夫婦の声質がまるっきり両親のものであることに気がついた。
ふと時計を見ると、まだ夕方だった。
*1:特定される可能性をおそれすぎてボカしています