0528下宿部屋の話
知らない街の大きな街路を歩いていた。
正確にはまったく知らないわけではないようで、進む方角の正しさだけを確信していた。
なにかやるべきことがあったような気がするが、思い出そうとすると頭に靄がかかったように意識が遠ざかっていくので、何も考えないように努めていた。
路地は人で賑わっていたような気がする。
ついでに同行者がいたような気もするが、誰だったのかも思い出せないし、もうそこには誰もいなかった。
映画「ライフ・イズ・ビューティフル」を思いおこすような古めかしくも統一された外観の街並みに、「フル・モンティ」の工場地帯のような雑然とした雰囲気の建物も混ざっていた。治安はあまり良くないようだった。
掲示板に彫られた街の案内図を眺めたあと、突然「家に帰ろう」と思い立った。
路地の坂道をまっすぐに下った先、防波堤にほど近い立地の建物に下宿しているらしい。メインはショウクラブで、おまけのように住居空間がくっついている寸法だ。
玄関が2つあり、坂道の途中にある方が下宿部分の玄関だった。
そこから数メートルほど港に近づくとショウクラブの入り口があった。派手な装飾が施されており、少し恥ずかしい。
狭い階段をおりていくと客席入り口に辿り着くのだという。
夕方だったので、劇場はまだ営業していない。それに私は住居側の玄関にしか出入りが許されていないので、どっちみち入れないのだ。鍵を取り出しながら、許可された方の入り口へ向かった。
玄関を開けてすぐの場所に、私に割り振られた部屋がある。
部屋にある大きな防音扉の向こうはステージになっていた。楽屋は上階にあり、演者は楽屋から私の部屋を通ってステージに出ることが多い。
プライバシーは無いが、特に気にならなかった。むしろ好ましいとさえ思っていた。
それなりの期間をこの部屋で過ごしているはずだが、楽屋である上階に続く階段を一度も見たことがないので、どこかに隠し通路があるのかもしれない。
部屋からは長い廊下が伸びていて、数メートルごとにゆるい段差がある。
廊下の中央ほどに薄い暖簾がかけられており、これをめくると客席が一望できるようになっていた。防音扉を設置した意味とはなんだったのだろうか。
客席に降りることもできるようだったが、私はこのエリアに立ち入ることが禁じられているため、誰かに見つかってしまう前にその場から立ち去った。
廊下は広く、ホールのようなつくりになっており、室内干しされた大量の洗濯物が柔軟剤の芳香を放っていた。
そのうえ、実際は物置のように使われているようで、ガラクタや小道具なども雑然とした様子で箱に詰め込まれている。ショウで使用するであろうハリボテも多く、そのうちの数個はおそらく私の作ったものだった。
家主はショウクラブのオーナーママも兼任している、肥えた中年女性だ。
物言いはきついがお人好しな面もあって、行くあても所持金もない私のような人間の面倒をよく見る。
いつだったか、店のカウンターで身の上話話をしたら、下働きを条件に住まわせてくれるようになったのだ。私と似たような流れで住み着くことになった人もやはり数人いて、みんなで下働きをしたり、たまにはステージに出してもらったりもしていた。
◆
その日は楽屋が慌ただしい雰囲気に満ちていた。なにかトラブルが発生したようだった。
役者が揃わないというので、私を含めたありあわせのメンバーで本番に挑むことになった。指定された曲を舞台裏で一度だけ聴く。これを歌いながら踊らなければならないらしい。
チャンスだと思って代役に立候補してしまった浅はかさに気づくも、本番の時間は刻一刻と迫っていた。
ステージに出ると別人のように変貌して、歌って踊れるスーパースター!
……になれるわけもなく、案の定ミスを連発して、ステージでは転倒し、隣の人ともつれ、歌詞は飛び、さんざんな出来だった。客席はしらけきっていて、こちらの方も恥ずかしいやら泣きたいやらで頭が真っ白になった。
ステージは客席を挟んで向かい合わせに設置されていて、中央に花道が通っている。座り込んでいると、奥のステージから有名なアイドルグループが出てきて、観客はそちらの方になだれ込んでいった。
みじめだった。